昭和40年12月03日 朝の御理解
自分の頂いておる信心を、確め確して参りませんと、自分でもう是で出来ておるというような思いでおりますと、愈々本番という時に失敗がします。何時も自分の信心と言うものが、はあこの程度だと是ではおかげは受けられん。というふうに何時も自分の信心を、分らせて貰わなければいけません。ぶんぷく茶釜じゃないですけれども。それこそ金の茶釜で立派な物の様にあったんだけれども。
さあ愈々ほんなら取引と言う事になって、その火にかけられたら尻尾を出したと、そういう信心ではつまらんでしょうが。いかにも見かけは立派な信心している様であり、さあ○○先生だとさあ総代さんだと。もう先生といやあ総代さんといわれりゃ、信心が出来てるように皆も思い、自分も思いあがっ取る様な事はないでしょうか。ね。出けとりゃ幸い。けれども事に当たって自分の信心というものを深く反省させて頂くとです。
このくらいにしか頂いてないんだと言う事が分る。そこんところを一つ付き合っていかなければいけないと言う事ですね。とにかく信心というのは言うなら、神様だけがご承知の世界に、生き抜く事ですから。先日田舎の高山さんが、御造営のあれで、みんな打ち合わせがありまして、一日ここでおかげ頂いておられて、夕食の時でした。秋永先生が何か信心の事で何かえらいこう、こっぴどくやってたんです。
「あんたじゃ分らん」て「神様と親先生だけしか分かってござらん」(笑い)というわけなんですまあ親先生。親先生だけしか分かっとりなさらんち言うてからその、本当にその親先生だけしか分かっちゃござらん、神様だけしか分かっちゃござらん人はどうでも良いちそのことなん。私が「幾らあんた椛目に何年かんご無礼したっちゃちゃんと親先生の事と、神様の事だけは忘れておらんもんじゃけ。私一人が一番知っとる」ち。
「なし、私がごとあんた、親先生の真似ばしきるもんなおるめいもん」ち、言うたごたるふうなことを、一杯機嫌で言うておられたんですね。「あんた、どげなこつば、親先生の真似しよるの」ち。考えよんなさった。以前も言いよんなはったこつがあったですがね、親先生が選挙ん時に投票に行きなさらん。もうこれだけは一丁真似せんならん。これは実行しとる。まあ一丁実行しとる。
「親先生が散髪おいでるといったら、絶対眉を当たんなさるまいが」ち、私も眉は絶対あたらんことに、それ以来眉は当たらんことにしとる。もう眉でんいいけんしねっでんあんたどんが真似が、ほんに何ち言いよんのち言うちから、私どんに言いよんなはったが、従兄弟半に当たりますもんですからね、まあ心安うまぎれてそう言うとりました。それで、秋永先生が言いよりました。
あんたがすかばねごと、そげんとがのうなってしまおもん。それだったっちゃ今まで私どん、ちゃんと剃りよったばってん、親先生が眉を当たられんというから、せめてこれだけなっとん、真似せんならんち思うて、真似しよるち。しかしそう言う様な事からでも、ほんなら通わんことはないですよね。選挙のたんびに親先生を思い出しござる。散髪に行くたんべんに、やはり親先生を思い出しござる。ね。
ですけども散髪に行ったときだけ思い出す、選挙の時だけ思い出すじゃあんまりこう、疎遠になりすぎますからですねえ。本当にいよいよこげん時に何時親先生は、どういう信心をされるだろうか。こういう時に、親先生ならどう動かれるだろうかという事になってこなければいけんと思う。昨日ある方が、奥さんがお産で里に帰っておる。向こうのほうから医者が帝王切開ですか、手術をしてから出さにゃいかんとこう。
それで医者の何ですか、保険何とかの証書を持ってすぐ来てくれと言うて電話の架かりよりましたから、今すぐ参りますと私が言うた。昨日私が電話で申しました。私は切開手術をせんで済むように御願いしよりますと言うてから、電話切ったんですけれど。それから二時間ぐらいしてから、とうとう切開手術をしてから親子ともに、無事でございましたけれどもおかげを頂いたとこういうわけなんです。
こういう時に例えば親先生ならばです、どういう風にここを頂いていかれるだろうかという事を思うて見なければいけないと思うですね。ね。私がどうということは私の信心を何時も見たり聞いたりして下さっておるから、分かっておるんですから、ああここなら先生がこうとられるだろうと。昨日委員長から二回続けて電話が架かってきた。あちらがこんどは、事務室に使う何とかハウスというのがあるんですね。
それに二軒から買うように、あのパンフレットを貰ってきておられた。先生どちらの方をさせて頂こうかとこう。私はそのパンフレットを見た途端にですね、こっちのほうに決めなさいち言うて三井そいう方を言うた。後からいうてどうして先生こっちを決めなさったじゃろうかち言うて、あとから月次祭の日でしたかね、あれは言うんです。あれが表紙がみんな私の一番好きな、カーキ色で出来ておった。
カーキ色というのは椛目の色。橙色もうこれは椛目に縁があると私が思ったから、これに決めなさいとこういった。いよいよ当たっていくところがそちらのほうは、十七万円片一方のほうは十四万五千円か何か大分開きがある。それはね今の椛目に於いては、二万でも三万でも安うなからにゃいけんから、安いほうを採らにゃいけんけれども、いわゆる何とかをもう一遍当たってみなさいち、私がこう言うた。
そしたらもう大変まあこんど参りましてから、詳しく話しますけれどもいろいろ問題が合ったらしいですけれども、先方がやはり値段を十五万まで、もうこちらへ据え付けてあの建て上げてしもうてから、十五万円で交渉が出来たと。ね、例えば私の生き方なんですよ言うなら。それを私がこう貫いていきよる。だからその貫いて行きよるようにおかげになって行きよる。
それを例えば皆がみたり、聞いたりしておるわけなのである。秋永先生がそれを私知ってなかったら、そら三万円も違うもんばこっちの方ばそんなら買おうち、言うとったかもしれません。けどやっぱり片一方のほうをそれこそ先生から、いっこも三井ち言うてあるけど、兎に角それに一生懸命交渉に、当たったこつには間違いないですね。それは電話ですからくわしくま今度参りましてから。
いろいろまあ無理を言うた話の事でございましょう。けれどもま三井の方の、いわゆる、カーキ色の方のそれを取られたわけなんです。皆さんお互い信心させて頂いて、まあその様々なときに、信心これが本当だこれが信心だと言うことを、やりぬかせて頂くためにですね、本当に神様だけがご承知の世界なのですから、信心の世界というものは。いかにも少しばっかり修行始めると、それを皆に見せようと言う様な、少し御用が出来よると、皆から分かってもらいたい、皆に認めてもらいたい。
と言った様な事では、そういうものは育ちませんですね。心の中にね、もうほのぼのとした有り難いものが湧いてまいりませんもん、それでは誰が認めてくれんでも、誰が知らんでもいいのです、もう神様だけがずっと見守っておって下さる。お取次ぎを頂いておるから、親先生だけが知っておって下さる。ね。同じ修行でも、そういう修行させてもらわにゃ駄目です。
御用でもそうです。自分なこげんしとるという事を、人に認めてもらわなきゃならんじゃ、人に認めさせなければ、自分の顔ばっかり作ろうとするようなですね、信心からはそういう人は、もう必ずえてしていよいよの時に、尻尾を出します。ぶんぷく茶釜じゃないですけれど、見かけは、金の茶釜のごつしとるけれども、いよいよ熱うなってまいりますと、尻尾を出す。
私共の信心がです。本当にいよいよ熱うなったら、もう尻尾を出すような信心じゃなかろうか。私が親教会の初代の十五年祭の前だった。奥城のお掃除に行って、竹屋根で私の足が竹をこう切りあとに、それに飛び下りとるもんですから、たまったものじゃない。もうざっくり足の裏やったんですね。けれどもあの時分の私の信心の稽古の、この一つの焦点というのが何処にあったかというと、もう昔の方達の信心でしたです。
昔の徳を受けた先生方やら、その徳を受けた先生方の信心を頂いておる、信者さん方の信心でした。素朴です実に素直な信心ですねえ。私どもんババたちは、私が怪我するとすぐあの泥を取ってから、天地の神様天地の神様、金光様金光様と言うて泥を塗ってくれました。もう膝坊主を擦り剥いても、あの小刀で怪我してもです。すぐあのそれでした。それで確かにおかげ頂いたですね。
今頃の人に言うたら、そげなもうバイキンの入る返ってから。けれどもあれは実際は、本当にあのそうですねえ、病気を癒しキズを癒す、働きが泥の中にはあるそうですね。あるでしょうね。あれだけのものを一切を生かす働きを、大地というものは持っておりますからね、泥というものは。その理屈は後に致しましてもです。そういういわば信心を頂きたいというような、ギリギリの生きた信心をこう。
頂きたいと願っておる時代でしたから、もう泥がつまったままやっぱ綱引きにも行きました泥堀も致しました。ほらもう夕方になったらもう、つけられんぐらいにそのあるんです。それで一番最後まで御用を頂きましてから、親先生に只今ここから、帰らせて頂きますと御挨拶申し上げたら、親先生があのお風呂入って行けとこうおっしゃる。もう親先生のおっしゃる事は。
神様の仰る事だと言った様な頂き方をさせて頂こうと、努めている時で御座いましたから。もう「はい」と言うて、もう私は今日はこげん怪我をしておりますから、もう湯風邪どんが入っちゃならんからと言った様なもんじゃないんです。本当にそれを神様が下さる物としてから、このお湯にも入らして貰う泥が入っても、それはそのまま取り除くどんじゃ無か、もうおかげとしてからそれを頂いて行くという信心なんですね。
おかげでもう本当にたまがる程に、痛みも取れてたまがる程におかげを頂いたんですねえ。さあ所がですもう一番最後、もうツウが一丁取れれば良かち言うごつなってからでした。私がもう当時は福岡に居りましたから福岡に帰らせて頂く。所がですそこから今度は化膿しだしたんです。そん時の方がひどかったんですどうでしょうか。一の太刀は見事に受け止めたけれど、二の太刀でよろよろというのではいかんのですよお互いが。
見かけは金の茶釜のごとしておる。さあゆや取引ということで火に掛けてみた。ところが尻尾を出したと。もう一番初めからこれではいけん。ね。私共はそこに焦点を置いて本当に信心を自分のものにしようと、神様私のものに私の身近な神様との繋がりのおかげを頂きたいと。いわゆる信心を頂きたいという、焦点をそこに置いておる時であったから、それが出来た。
さあヨウチンださあお医者さんだということを、薬だということを要らなかった。泥は泥でお湯はお湯なりに頂いて、そしてもうおかげを頂いてしもうたかの様に見えた。もうほじゅうがゆうになってからツウが一丁取れりゃ、もうぽろっと取れて良うなるというところまで行っとった。心が少しゆるんだのかまた二の太刀を神様が下さったのか、いわゆる試されたというのでしょうか。そういう時にです。
私がその当時はあのう、大変薬品が少くのうございましたけれども、化膿性疾患にあのテラボールという薬が大変良く効くというので、沢山あのう持ってきておりましたが、あの北京から引き上げて帰って来る時に。けれどもそげな薬箱なんかは全然用のないという時代ですから、家内が貴方ほんならテラボールを塗りなさったりしたらどうですかち、言ってくれましたけれども、もうそげなもん付けようとも思いませんでした。
後で考えてみてあれが二の太刀だったなあと、こう思うんですよねえ。お互いですいよいよ自分の信心を、そういう時に確かめてみるのですよ。一の太刀は見事に受け止めたけれども、やっと二の太刀がくるともうそれでよろよろ、三の太刀ではやられてしもうとる、と言う様な事では本当の力はつきません。
おかげで一月ぐらい掛かりましたでしょう、ちんがちんが致しまして。けれどもやはりおかげを頂きました。だから私はそういう時でもお湯にはつけました。もうこう足は今なら付きませんでしょうけれどね、もうそこを頂きたいと思うですから、もう一生懸命にこうその勢いで、金光大神様と言うてその、傷口を湯に付けるときは痛いんですけれどね、だからこそ、生神金光大神様が唱えられるのですよ。ね。
これはもうその怪我とか傷だとかというだけの事じゃありませんよ、一時が万事にそうです。自分の信心を確かめてみる。あぁほんにそうだと自分では分かった様に思って居るけど、ただ実際家でやってみると、なかなか分かっていない。私若いときに三味線の稽古を致しました。それでそのお師匠さんと一緒にこうやって、引いて居る間は自分ももう、覚えたように思うておる。
どっこい家へ帰って引いてみると、どっこいいかんのですよ。そんなもんです。ですから確かめてみないけません。ね。そしてそこが出けとらんならまた、あくる日そこんところを、私は習わにゃいけません。それを繰り返し稽古してみなければいけません。神様は絶対のもの。神様はおかげは絶対なもの。その絶対なものがこちらが絶対でないために、おかげのほうが右左になっておるのでございますから、ね。
だから私が夕べも皆さんに申しましたが、御願いをさせて頂いたらね、もうおかげ頂いたものだとという確信の持てれる信心をしなさいと。善導寺の青木さんが、先月もう二十日もう後十日ぐらいの時でした、いわゆるお願いに見えられてから、今保険をやっておられる。一千万のあれを取らんならん。もうそげな一千万のだんじゃありませんもう半分ことは入りまっせん、その三百万でん取るんならばもう良かごつなっとります。
先生どうぞこれが十一月の割り当てでございますけん、どうぞまあおかげ頂きますようにと言われるから、「そげなこっじゃおかげ頂かんばの」ち私が申しました。「どうして、一千万ち御願いせんの」ち、御願いし御願いしたら、もう頂くという気になりなさいと、私が言うた。やっぱりあの御理解を頂いて、心の中にピリッとこう響いて、閃いてくるもの「はあそうじゃった」と思う心がもうおかげいただいとるです。ね。
それから元気が出て一生懸命、おかげで軽う一千万円上がった。ほんならおかげ頂いてから、昨日お礼に出てきてからですたい、主人が久留米の何とか物産というあそこへ勤めとります。年末で込んでから六千万はどうでも、売り上げんならんち言う。「お前がそげんおかげ頂くなら俺がつも、いっちょ御願いしてくれ」ち、言いよったち言うてから、ご主人のことも御願いして見えよったけれども。
私お取次ぎさせて頂いたんですけれどね、けれども御願いしたならです、ね。神様から、加勢してちっと、ね。というのでなくても御願いをした。そん代わりその御願いそのものがです。やはり検討に検討されとかにゃ嘘。だから御願いをしたら最後、頂くものと確信させていただかにゃ。そしてよしまあいただけんとします。そこんところを自分の信心の確信が足りないのだと言うて。
そこんところを押していかなきゃいけん。そこん所を稽古していかにゃいけん。一千万の御願いをしたとなら、三千万しか出来なかった。五千万しか出来なかった。六千万しか出来なかった。所謂あとまあ、四千万の信心が出来ていないのだと言うて、そこん所をああでもなかろうか、こうでもなかろうかと言うて、この迫力を持つそこん所の信心を合わせていかにゃ出来ん。
おかげもこのくらいなものと言うてしたらもう、神様もその位なものになってしまわれるを。ことになるでしょうが。ね。だからそう言う様なおかげを、いよいよの時に頂かせてもらうためにです、日頃の信心を確かめ確かめさせて頂いてです。分かっているようであっても分かっとらんと言う事を分かって、本当に分かる信心になっていかにゃいけん。ぶんぷく茶釜が。
火にかけられたら尻尾を出したと言う様にです、ね。ちょっと熱くなりゃもうへこたれる。そういう事ではいけません。ならそれをよし出来ても一度たりだけじゃありません。さ、これでもか、れでもかと言うて、神様は迫ってくださる。本当のものを与えてくださるためには、ね。そこんところを、おすがりしぬいて、おかげを頂いていくという信心。今朝、私はそのことを神様から頂きました。
自分の信心を確かめていくということを。御神眼にぶんぷく茶釜の、そのところを頂くんですねえ。火がちょっと熱くなったらもう、尻尾を出しているところを。お互いの信心が、ぶんぷく茶釜的な信心じゃなかろうかと。ね。何かに直面したら、もう、ぐらっとする。何かに直面すると、もう疑う。ね。そういうようなことでは、本当の神様を、頂くことは出来ませんです。
どうぞ。